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3月の東日本大震災と原発の事故、9月の台風など、気の塞がる出来事が多かった2011年もそろそろ終わろうとしている。
一方、僕が大好きなサッカーではアジアカップ優勝、女子=なでしこジャパンはワールドカップ優勝、そして東北復興支援チャリティーマッチではキング・カズのゴールなど、心躍る出来事もたくさんあった。 これからも良いこと悪いこといろいろなことがきっと次々と起こるのだろう。それを全部乗り越えて、前に進んでいきたいなと、当たり前の思いを新たにさせられる年になった。そして、アートには(何かのためのツールではなく)アートそのものとして果たすべき社会的な役割があるのだということをしっかり伝えていきたいものだと、改めて考えているクリスマスの夜。 2012年もHRD FINE ARTをよろしくお願いいたします。
「風景の逆照射」という、いっぷう変わったタイトルの、いっぷう変わった展覧会が京都精華大学の学内ギャラリー「フロール」で年明けの1月6日から開催される。
この展覧会のカタログのテキスト翻訳をお手伝いしたので、ここに告知を兼ねて紹介させていただこう。 絵画作家の安喜万佐子や、自主ギャラリー兼共同スタジオ「STUDIO90」の森川穣、映像作家の林ケイタなども参加する現代美術の展覧会なのだが、「美術」という領域にとどまらず、建築家ユニット「RAD」や俳人、さらには脳科学者なども参加するという、かなりオルタナティブ感の強い企画である。 取り上げられるテーマは「風景」。ざっくりと言えば、人間と風景との関係性を再考しようという試みだ。日頃、何という疑問もなしに口にし目にしている「風景」という言葉(あるいはそのイメージ)に込められた歴史性や文化性を掘り下げ、そこに新たな「視点」を見いだそうという、かなり野心的かつ哲学的な展覧会と言えるだろう。アートについてまわる「見ること」と「感じること」の深淵に触れるうえでも興味深いテーマだ。 個人的には、俳句の余白と写真との表現上の関連性をテーマにした展覧会を企画したこともあるので、「俳句」と「風景」との関係がこの展覧会ではどのように提示されるのかに興味がある。 展覧会の詳細は以下のウェブサイトにて: http://www.ipp2011.org 1月6日には評論家・木下長宏氏(今回の展覧会の出品者でもある)の講演も予定されている。 絵画と映像と詩とインスタレーションと建築……ちょうど現在、展示作業のまっただなからしいのだが、どのようなスリリングな展示が見られるのか、楽しみだ。2週間程度と短い会期だが、お時間のある方はぜひ。 ![]() *** 「IPP #0 風景の逆照射」 京都精華大学ギャラリーフロール 2012年1月6日(金)〜21日(土) 11月19日からDEMADO PROJECTの第4回の展示「たまてばこ堂」が始まっている。
19日のオープニング当日は京都は朝からあいにくの雨。しかも結構しっかり降っていたのだが、オープニング・レセプションのはじまる夕方には幸いなことに雨も止み、HRD FINE ARTのオフィス(と居間)がいっぱいになるくらいの人にお集りいただくことができた。 ワインと簡単な軽食でささやかなおもてなし、熊本から設置にやってきた作家の川嶋久美を囲み、話もあちこちと飛び回って楽しい会になった。ご参加くださった皆様、ありがとうございました。 ![]() ![]() *** 今回の展示プロジェクト「たまてばこ堂」は、前回のブログでも書いたように、いろいろな人の最高の思い出を集め、それを川嶋がつくる「たまてばこ」に封入する。さらにそれが他の人の手に渡ることによって、「目に見えない」記憶の交流を生み出す、ということが意図されている。 架空の商店「たまてばこ堂」のショーウィンドウで現在展示されている「たまてばこ」にも、実際にすべて誰かの「一番の思い出」が封入されている。もちろん、作家自身もその内容を見てはいないので、何が書かれているのかを知っているのは書いた本人だけ。そして、書いた本人は自分の「思い出」がどの箱に入っているのかを知ることもない。オープニング・レセプションに来ていただいた方々からも「思い出」の提供をいただいたが、これは新たにつくられる「たまてばこ」の中に納められ、今回とはまた別の機会(「たまてばこ堂第2号店?」)に展示・販売されることになる。 「たまてばこ堂」では「たまてばこ」を1,000円で販売しているのだが、「思い出」を提供した人だけが購入できるという条件にしているので、「購入」というよりも「交換」と呼んだほうがより正確かもしれない。封印には作家のサインと通し番号をつけて、マルチプル作品としての性格も持たせている。 アート作品を買うと、それをどのような時・季節に、どのような状況で(どの展覧会で?)、どこで買ったのか(どのギャラリー?)、といったことの記憶がその周囲に漂うことになる(もちろんそんなことはすっぱり忘れてしまうケースもあるだろうが)。これはアート作品に限ったことではなく、お土産や本やその他の何でも同じことが言えるのだが、「たまてばこ」の場合、そういった外的要素に加えて、自分が書いた「一番の思い出」という「内的要素」が、間接的に、しかし常に密着して存在し続けることになる。自分の思い出は別の箱に入っていてここにはないにもかかわらず、だ。見知らぬ他人の思い出が入った「たまてばこ」を持ち続けることで、自分が書いた「一番の思い出」が(一言一句正確にではないにせよ)鮮明に意識の中に残り続けることになる。 何か非常に不思議なことが起こっているように見えるのだが、それほど奇異な現象ではないのかもしれない。 というのも、「記憶」とは本来とてもあやふやで曖昧なものだ。昨日会った人がどんな服を着ていたか、正確に思い出すのは至難のわざだろう。だから我々は、写真や日記やお土産や記録に頼ったりするのだが、それは「記憶」そのものとはかけ離れた「もの」あるいは「情報」にすぎない。素晴らしい出来事を体験して、「このことは一生忘れない」とそのときには思っても、あとになってみれば別のどうでもいい出来事の細部(何年も前に訪れた外国の空港で、目の前でスーツケースにつまづいて見事に倒れたどこかのおじさんのセーターの柄とか)のほうが鮮明に憶えていたりする。 川嶋久美のこれまでのインスタレーションやワークショップでも、記憶や想像(あるいは空想)に対する視点が基本になっている。川嶋が作品ファイルに記した言葉がとても示唆的だ。「美術の時間、私は紙が真っ白なままでいることが長い子どもでした」。本来目には見えない頭の中の働きを、ある一定のルールで視覚化し、提示する。そのときに働く感情や、思い描いたものと実際にかたちになったものとのズレや違和感を認識することは、我々が普段当たり前に捉えている「見ること」や「思い描くこと」の当たり前さを鮮やかに揺り動かしてくれる。 ![]() ![]() ![]() *** 展示は12月28日まで。 DEMADO PROJECT「たまてばこ堂」のウェブページ http://www.hrdfineart.com/demado/04tamatebako.html 「たまてばこ堂」プロジェクトへの参加にご興味のある方はinfo@hrdfineart.comまでメールにてご連絡ください。 当オフィスのウィンドウギャラリーの展示プロジェクトDEMADO PROJECTの第4弾として、熊本在住の作家、川嶋久美による「たまてばこ堂」を来週末からオープンする。
熊本・河原町で月1回開催される「アートの日」での展示など、サイトスペシフィックなインスタレーションや観客参加型の展示を活動の中心としている川嶋久美。河原町では「たろ」というアーティストネームで発表しているが、今回は実名(?)での発表となる。 もう1年以上前のことになるが、昨年10月の「河原町アワード」で「HRD賞」に選ばせていただいたのがこの作家との縁のきっかけだった。 当初、HRD賞の副賞として、ソウルの狭小アートスペースでの展示プロジェクトの企画・コーディネートということを考えていたのだけれど、これがソウル側の態勢がなかなか整わず、実現にいたるまでにまだまだ時間がかかりそうなので、その前にDEMADO PROJECTでの展示をオファーすることにした。つまり、今回の展示は「河原町アワード2010」の一部であり、延長にあると言ってもよいような企画なのだ。 昨年の河原町アワードでの川嶋の作品は、ビニールでつくった透明な服をハンガーで頭上にいくつも吊るし、その服から抜け出した様々な色がカラフルな雨となって降る様子をジェル状の雫で表現したインスタレーションだった。もともと繊維問屋街だった河原町の歴史と、そこから現在のアートの街への変貌と、変化する時間を視覚的に表現する試みだ。 ![]() ![]() イラスト的な作品やクラフト的な作品が過半数を占める河原町アワードの出品者たちの中にあって、川嶋のインスタレーション展示は常に異彩を放っている。河原町という強烈な場所性を汲み取ったり、「アートの日」という非日常の祝祭的な感情を切り取ったりと、野心的な展示をいつも見せているが、「アートの日」のイベント性が逆に窮屈さを生んでいる印象も、川嶋の作品に限って言えば正直なところ受けていた。 そんな彼女が、京都の街で、町家のウィンドウギャラリーというこれまた特殊なセッティングの中で、どのような展示を構成し、展示するのか、これはとても興味があった。いくつかのアイディアを意見交換する中で彼女から出てきたのが、「浦島太郎の玉手箱を売る店」というプランだった。 京都の町家が持つ歴史的背景から引き出された「架空の店」という設定、時間を封じ込めるということの空想性、決して開けてはいけない箱という物語性、観客の参加など、川嶋のアーティストとしての特徴がよく発揮された展示になるのではないかと期待している。 詳細はDEMADO PROJECTのページに情報を掲載しているのでそちらをご覧いただくとして、ここでひとつお願い。このプロジェクトには観客の参加が欠かせない。お時間がある方は11月19日のオープニングレセプションにぜひご参加いただき、玉手箱に入れる「思い出」の提供をお願いしたい。また、レセプションに参加できないという人でも、郵便等でのやりとりでプロジェクトに参加していただくことは可能なので、ご興味のある方はメール等でお問い合わせいただきたい。 ![]() *** DEMADO PROJECTのウェブページ http://www.hrdfineart.com/demado/dtop.html facebook上のDEMADO PROJECTのページ http://www.facebook.com/pages/Demado-Contemporary-Art-Project/139676042758086
(2)からのつづき
前回の(2)で「(3)につづく」と言いながら、雑事に追われて永らく更新できずにいたので(まだまだ落ち着いて詳細の分析をレポートできる状況ではないのだが)、当面のつなぎとして(最近なんかこんな台詞ばかり書いているような気もするが)、河原町アワードに引き続いて開催された「アートは熊本の未来に何をもたらすか」と題した座談会について、会場の様子の写真を中心にしてご紹介したい。 座談会の会場となったのは、河原町からほど近い「早川倉庫」という木造2階建ての大きな建物。もともとは醸造所の一部として使われていたようだが、現在は倉庫として、またこのようにイベントの会場として活用されているらしい。大きくて立派な梁が見事な、味わいのある建物だ。 熊本市の幸山政史市長とアサヒビール芸術文化財団局長の加藤種男氏(河原町アワードのゲスト審査員でもあった)の2人の対談を中心に、会場の参加者(100名近くになっていたのではないかと思われる)にも意見を求めたり、アンケートをとって発表したり、という構成で進行していった。 冒頭、市長のスライドプレゼンテーションは残念ながら(2)に書いた理由で拝聴できなかったのだが、全体のテーマとしては、「文化創造都市」をキャッチフレーズとしたまちづくりを推進している熊本市における都市戦略のあり方について、その中でのアートプロジェクトの位置づけについて、様々な角度から考えてみようという設定がなされていたようだ。 市長のプレゼンテーションに続いて行われた、加藤氏のスライドプレゼンテーションの様子。 ![]() ![]() その後、休憩を挟んで、後半は熊本市内で市民参加型の(いわゆる町中活動的な)アートプロジェクトを展開している各団体の紹介があり、さらには会場の参加者にも意見を求めながらのディスカッションが行われた。熊本がどのような街を目指していくのか、その中でアートが果たすべき役割は一体何なのか、というような茫漠たる問いに向かって多種多様な意見が出されていた。 その中では、「プロのアーティストとして生きるというのはどういうことか」とか、「アーティストを経済的に支える仕組みは可能か」といったような問題提起もなされたりして、自分がいつも考えている問題を再度整理する必要を感じながら聴かせてもらえたので、僕にとってはとても有意義な時間となった。 ![]() ![]() *** 今回の座談会でも、また昨年の「九州アートマン会議」でも提出されることのなかった、しかし非常に重要な視座がある。ここで、簡単な思考メモとしてその問題をまとめてみたい。それはすなわち、アートプロジェクトを「サポート」する立場の行政サイドと、実際のアートプロジェクトを運営管理する側と、またそこに参加して制作や発表活動を行うアーティストと、この3者を共通のベクトルに束ねることは、実は非常な困難さを伴い、ほとんどの場合不可能なのではないか、ということだ。 ここでの第3身分=アーティスト(広い意味で捉えるとデザイナーやイラストレーター、職人などの製造業者的クリエイターも、ファインアートの作家やミュージシャンやダンサーなどの表現者も含まれるのだが、前者については表現活動を行うアーティストというよりも業者や企業と考えたほうがこの場合には妥当であり、発注・受注関係で主体性なく行動する「業者」は上記の3者のいずれの「主体」にもあてはまらないので除外して考えたい)は、個人的な動機に基づいて表現を行う、いわば恣意的な活動主体というのが本来の姿であって、まちづくりなどのコミュニティ活動にコミットすることのメリットは、あくまでも個人的な目標達成に利用できるかどうかということでしか判断できないということを理解しておかなければならない。 もちろんコミュニティとの関わりをベースとした表現者も存在するが、数から言えばそれはあくまでも少数であり、それらのアーティストにしたところで(公務員ではないのだから)コミュニティ活動の成果を自らの作家活動の成果よりも上位に据えているわけではない。言い換えれば、地域が活性化すれば、自らの名声や活動の評価など二の次、などと考えられるアーティストは(定義上)存在しないということだ。定義上、というのは、もしもそのように主張するアーティストがいるとしたら、それはアーティストというよりも社会活動家として定義されるべきだからだ。あるいは、この場合に限って言えば自主的公務員的活動家と名付けてもよい。それを敢えてアーティストと呼ぶならば、それはアートプロジェクト専用、あるいはまちづくり専用・まちおこし専用のアーティスト、ということになるだろう。 アーティストがコミュニティの再生や活性化に寄与する活動に参加することのメリットは何なのか? 繰り返しになるが、それは、アーティストの個人的な成功につながるような社会的な露出を得られる、あるいはその可能性がある、ということでしかない。そしてその活動は、行政のサポートを得る限り(つまり税金による裏付けを得る限り)において、あくまでもPC(ポリティカル・コレクトネス=政治的に適切であること)の範囲を逸脱できない。当然ながら社会規範に挑戦するような表現も、政治的に強い主張を帯びた、偏向した表現も許容されないだろう。ということはつまり、去勢された、あたりさわりのない、面白みのない表現しか生まれてこない、ということになるのだ。それは果たして社会が「アーティスト」に求めるべき役割なのだろうか? もちろんここに述べたようなことはあくまでも理屈の上のことであり、個々のアーティストはこうした状況下でもうまく身を処す方法を心得ている。アートプロジェクトが社会的要請に合致するように提示するベクトルに、表面上、ベクトルを合わせてみせることなど軽々とこなせるアーティストも多いだろう。表面上のベクトルは、しかしあくまでも表面上のベクトルでしかなく、本質的なベクトルの方向とはあまり関係がない。そして、少し飛躍するようだが、この本質的なベクトルのズレから「利用」と「搾取」の関係が生まれてくる。 *** 河原町の「アートのまち」の活動についてのレポートから内容がどんどん離れてしまうので、「思考メモ」についてはこのあたりにとどめておきたい。まだまだ整理が必要なテーマなので、また機会があればこの問題については突き詰めていきたい。 いずれにしても、「アートは熊本の未来に何をもたらすか」という今回の座談会の問いは、そのまま「熊本」を様々な地域に置き換えて、あるいは「日本」に置き換えて、より根源的な問いへと思考を深化させていくきっかけになるのではないかと思った。いや、ぜひともそうしていかなければならないと感じている。 「熊本・河原町で何が起こっているか」の項、ここでいったん了 (1)からのつづき
「河原町アワード」では、地元・熊本の企業によるスポンサー賞と、ゲスト審査員による賞が設定されている。スポンサー賞では、例えばショップの店舗で展示ができたり、画材屋さんから画材の提供を受けられたり、といった副賞がある。熊本市現代美術館も昨年に引き続き美術館での展示企画という副賞つきの賞を用意していた。 ゲスト審査員賞の場合、コラボレーションの機会の提供などの特典がある場合もあるし、賞状による顕彰だけというケースもある。今回のゲスト審査員には、別府アートプロジェクトの企画担当者、東京でショップのプランニングなどを展開しているプランナー、アサヒビール文化財団の加藤種男氏(今回の河原町アワードはアサヒアートフェスティバルのプログラムの一環として認定されていた)、フィギュアイラストレーターのデハラユキノリ氏(明治製菓のきのこの山のキャラクター「きの山さん」の作者)など、様々なジャンルから匆々たる面々が集っていた。自分はさておき、これは一地方都市の小さな区域レベルのイベントとしてはなかなかのものだと思う。繰り返すようだけど、自分はさておいて。 ![]() 表彰式にて。デハラユキノリ氏(右)。 ![]() 加藤種男氏(左)。 HRD FINE ARTから「HRD賞」を贈るのも今回が3回目。いろいろ悩んだ末に、ネパールで撮影したモノクロ写真を発表していた豊田有希に「HRD賞」を贈ることにした。 ![]() 去年も河原町アワードには参加して作品を展示していたようなのだけれど、申し訳ないことに全く印象に残っていない。逆に言えば、今回出していた作品は去年とは比べものにならないほど飛躍的にクオリティが上がった、ということだろうか。 ![]() ![]() この写真の左側に写っているのが豊田さん。 シャッターにマグネットのフックでフレームを展示するのは河原町では定番の展示方法。海外での撮影は初めてだったという、ネパールの山村でのスナップ。コンセプチュアルというよりもストレートフォトなのだけれど、技術的にしっかりしているし、モノクロームの画面の美しさの中にも「見ること」の驚きや喜び、畏怖が伝わってくるような「ナマ」な感覚が備わっていて好感が持てた。 HRD賞の副賞としては、DEMADO PROJECTでの展示の企画をオファーした。来年はじめ頃にでもウィンドウギャラリーで作品を展示したいと思っている。乞うご期待。ちなみに彼女はアサヒビール文化財団の加藤氏、福岡の「紺屋ギャラリー」からもそれぞれ賞を受賞していた。 ![]() 河原町アワードは表彰式を終えて午後3時頃にいったん終了。写真は受賞者と審査員による記念の集合写真(撮影=笹井マサフミ)。 このあと、会場を変えて午後7時からは「アートは熊本の未来に何をもたらすか」という座談会が開催された。ラーメンを食べに行っていて開始時刻から少し遅刻してしまったのだが、その座談会の様子は(3)にて。 (3)につづく この週末、熊本市内の旧繊維問屋街・河原町で開催された「河原町アワード」に、2009年と2010年に続いて3年連続で審査員としてお招きいただいた(正確には2009年には荻野夕奈の個展を開催した「ついで」のようなものだったので、ゲスト審査員として招待されるのはこれが2回目)。
秋になると熊本に行くという、僕にとってはなんだか年中行事のようなものになりつつある。ここでの活動を定点観測させていただいているということも言えるわけで、本当にありがたいことだと思っている。 ![]() 河原町の歴史的な経緯や現状、近年の活動については、2年前にこのブログに多少詳しく紹介しているので、ご興味ある方はそちら(「熊本・河原町のこと」)をお読みいただくとして、今回は「河原町アワード2011」のこと、そしてそのプログラムの一環として開催された座談会「アートは熊本の未来に何をもたらすか」についての報告をメインの内容としたい。 そしてさらには、偶然の巡り合わせと様々な人々との出会いから、熊本には縁もゆかりも(多分)ない自分が、少しずつ、それもかなり特殊な立ち位置から関わりを持つようになってきたことも踏まえて、ここで展開しているアートコミュニティー活動について数回に分けて書いていこうと思う。テーマは地域振興、芸術文化と経済、多中心なアートマーケットの可能性、アートマネジメントにおける中央と周縁の関係性、といったようなことだ。バラ色のストーリーだけではなく、もちろん批判的な視点も含まれなければならない。 とは言うものの、つい一昨日のイベントの印象をまだ整理しきれているわけでもなく、まとまった内容の何かがすぐに書けるとも思えないので、ひとまずはフォトレポートというかたちで「熊本・河原町で何が起こっているか」をお伝えできればと思う。 まずは残暑厳しい真っ昼間に行われた「河原町アワード」の様子から。 ![]() ![]() ![]() おそらく昭和30年代くらいの建造と思われる河原町の建物。レンガやコンクリートブロックで無造作につくり上げた、集合住宅というのか集合店舗というのか、よく言えば趣のある、悪く言えば廃墟のような、そんな場所性たっぷりの場所で河原町アワードは年1回開催されている。 昨年までは実質上も年1回の開催だったのだが、今年は「文化市場部門」と「現代美術部門」という2つの部門に分けて分離開催された。「文化市場部門」は8月14日で、僕がゲスト審査員を仰せつかった「現代アート部門」が9月11日の開催。終戦記念日の前日とか、9.11とか、メモリアルな日に合わせたわけでは全くなく、毎月第2日曜日に開催している「河原町アートの日」というアート系フリーマーケット的なイベントの延長線上にあるお祭りなので、今年はたまたまカレンダー上こんなきな臭い日にちになってしまったというだけの話。 ![]() ![]() ![]() 「今に訴えかける本気の作品をジャッジする現代アート部門」(フライヤーより)の出品作品たち。 イラストやキャラクター的なもの、クラフトやデザインに近いものまで、出品作品のジャンルの幅はとても広い。やはりアート系フリーマーケットの延長線上なのでこれはある意味当然と言えば当然で、「いわゆる」という冠がつくような、いわゆる現代アートに見える作品はどちらかというと少数派。 半屋外の空間そのものもホワイトキューブのギャラリーや美術館とはかなり様相が異なるし、展示も手づくり感が満載だ。ただ、持ち出し方によっては十分に表現としての強度を持つだろうと思われる作品も中には(撮ってきた写真で改めて見たりすると)いくつかあったので、やはりアートの世界では見せ方や提示の仕方の問題、別の言葉で言えば「文脈」というものが本当に大きいのだなと思い知らされる。 ともかく、これらの作品を審査員たちが見て回り、それぞれ受賞作家を決めたりしていく。GEISAIのような形式と言うとわかりやすいかもしれない。今回の現代アート部門出品者は27名(組)だった。 (2)につづく 河出文庫の『ラテンアメリカ怪談集』(鼓直編)という本を読んだ。1990年出版で、どうやらすでに絶版になっているらしい。
メキシコを含めたラテンアメリカの現代文学作家による短編のアンソロジーだ。タイトルに「怪談集」とあるものの、日本語で言うところの典型的な「怪談」は一編もなくて、どちらかというと怪奇譚、怪奇小説、シュルレアリスム的な物語、を集めた短編集という趣が強い。題材も現代的なものが多い。 作品の舞台となる土地も、ラテンアメリカを飛び出して、ヨーロッパに置かれているものもあるし、中国(とおぼしき国)が舞台となっているものまである。ラテンアメリカ出身の作家(あるいはラテンアメリカにルーツがある作家)が書いたもの、というだけの話であって、作品がそのままラテンアメリカ文化を映し出していると感じられるものは存外少ない。 「ラテンアメリカ」と「怪談」の組み合わせで予想するような、現地の古代文明や原住民文化に根差したようなお話を期待して読み始めると肩すかしをくらう。しかし、タイトルの不適合を別にして、この本がコンセプトからして内包する多彩さや逸脱感、矛盾はとても面白く、興味深いものだった。 「ラテンアメリカ」とは何か? ステレオタイプ的なイメージ(マチュピチュ、インカ、インディオ、ラテン音楽などなど)とは別の切り口で、歴史的・文化的に切り離せない強いつながりがあるラテン圏ヨーロッパとの関係性やその断絶に視点を置くことは、「ラテンアメリカ」とは何なのかということを考える上で重要なことのように思う。そしてそれは、程度や方式、経緯の違いこそあれ、ヨーロッパの文化を吸収咀嚼して形成してきた日本現代文化の実体(多彩さ、逸脱感、矛盾)について考える上でもいろいろと参考になるのではないだろうか。 ![]() 収録作品のひとつに「波と暮らして」という奇妙な作品がある(奇妙、ということで言えばすべての作品が奇妙なわけだが)。海岸で「ほっそりとして、軽そうな波」と出会い、自宅に連れて帰って同棲生活をすることになる男の顛末を淡々と綴った物語なのだが、このシュルレアリスム的な掌編はメキシコの詩人・小説家オクタヴィオ・パスの手による作品だ。 オクタヴィオ・パスはアメリカ抽象表現主義の泰斗ロバート・マザウェルとの共作による詩画集も出版していて、この詩画集に収録されたマザウェルの版画作品は「オクタヴィオ・パス・スイート Octavio Paz Suite」として知られている。マザウェルは東洋のカリグラフィ(つまり墨書)の影響も受けていて、海の波しぶきを思わせる即興的な筆触の作品も多く制作した。「海辺で Beside the Sea」や「波 Wave」と直截的に題された作品もあり、「オクタヴィオ・パス・スイート」にも波頭の水しぶきを思わせるようなスタイルの作品が数点収録されている。パスの「波と暮らして」を読んでからマザウェルの作品を見ると、女性としての「波」のイメージが重なってきて面白い。 不定形でとらえどころのない自由奔放な存在としての「波」に対して、その精神性に対して、パスとマザウェルともに強い関心を寄せていたのだろうか、などと想像をたくましくしてみる。「波に暮らして」の最後では「波」は凍らされてその自由な不定形さを奪われ、「氷」としてレストランに売り渡されてしまうのだが。 「ウェイターは、さっそくアイスピックで彼女を砕き、ボトルを冷やすアイスペールに氷片を丁寧な手つきで詰め込んだ。」 ![]() ロバート・マザウェル「Red Sea」(アクアティント、1913年) ロバート・マザウェルの財団のウェブサイト: http://dedalusfoundation.org/index.php/site/motherwell/
7月からは韓国人ペインター、チェ・ユンジョン(Choi Yoonjeong)の作品「Remembering, Being Remembered...」をウィンドウギャラリーで展示中。この作品は5月のアートフェア京都でも展示していたものだ。
チェ・ユンジョンは1983年生まれ、20代のまだ若い作家で、アクリル絵具を用いた非現実的かつ幻想的な室内の空間を描き出すスタイルで制作を続けている。以前は色彩も空間構成もよりダイナミックで自由奔放な作品を多く描いていたが、最近の制作ではより静かで緻密な表現に移行していて、奇妙さや非現実感が一見してもわからないようなスタイルになっている。 シュールレアリスム的、という形容が当てはまるのは間違いなくて、均質な筆触やパステル調の色感など、ルネ・マグリットを想起させる部分も多い。毛糸に縛られたインコ(の剥製)や空っぽの鳥籠など、現代社会や人間関係の不安感を暗示するような象徴的モチーフも登場する。 とはいうものの、全体としての画面にはあっけらかんとした明るさがあり、深刻なメッセージを伝えることに重点が置かれているわけでもないことがうかがわれる。韓国の若い世代の作家の多くに見られるような、韓国社会の伝統的な事物・事象のモチーフ(例えば食べ物、伝統芸能の衣装、工芸品などなど)を登場させて現代的なイメージと対比させるような、ストレートな(そして安易な、あるいは表面的な)問題提起の身振りもここにはない。 彼女の作品を特徴づけているものは、シュールレアリスト的な表現手法や絵画言語ではなく、あたかも箱庭や舞台装置の模型のようにその中で様々なイメージが移動し、入れ替えられ、新たに組み合わされていく、そのいわば関係性の「一人遊び」の現代的な感覚にこそあるように思われる。 ![]() ![]() ![]() ![]() 「Remembering, Being Remembered...」には2つの両開き窓が描かれている。ウィンドウギャラリーの出窓の中で「窓イン窓」になっているところもこの展示のひとつのポイントとして見ていただければと思う。 *** アーティスト、チェ・ユンジョンについて(HRD FINE ARTウェブサイト) http://www.hrdfineart.com/art-choi_yj.html
東日本大震災の復興支援チャリティーを目的としたオークションが京都市立芸大のサテライト・ギャラリー@KCUA(アクア)にて開催されている。「SILENT @KCUA(サイレントアクア)」と銘打たれたこのオークションの展示(オークション用語で言えばプレビュー)の初日の今日、見に行ってきた。どうでもいいことだけど@KCUAを「アクア」と読まされるのにどうしても馴染めないのは僕だけだろうか? アットケークアとか言ってしまう人は他にも結構いるのではないだろうか(ちなみにKCUAは京芸の英語表記Kyoto City University of Artsの頭文字をとった略称だ)。
オークションの出品者は卒業生や教員など、京都市立芸大の関係者。有名作家も出品しているし、学生・院生の作品もある。作品はすべてハガキ大までの小品。展示ギャラリー内には小さな仮設の木棚が端から端まで何段も取り付けられていて、そこに作品がズラリと立てかけられて並んでいる。900に迫ろうという作品数だから、これだけでなかなか壮観だ。大半は絵画やドローイング、版画や写真など平面だが、もちろん立体や半立体の作品も少数ながら出品されている。 展示の会期は6日間。その間、3,000円を最低入札価格として入札を受け付け、最高額のビッダーが落札するという仕組み。落札額の全額が義援金として被災地に寄付されるという(寄付先はまだ未定)。「サイレント」というのは、立ち会いオークション形式で金額を競り上げるのではなく、書面での入札なので(つまり声を出さないので)ビッドの金額が他の人にはわからないという仕組みのことを指すようだ。作品にはキャプションもサインもつけられていないので、基本的には誰の作品なのかはわからない、という意味でもサイレントである。「基本的には」というのは、オークションのウェブサイト上には出品作家のリストは公開されているし、かなり、あるいはある程度作品が世に知られている作家の作品の場合には作品そのものがシグネチャーになっているので誰の作品か一目瞭然、というケースもあるからだ。 チャリティーという本来の目的は横に置いて、この展示システムはそれ自体かなり興味深かった。美術館の展覧会では作品を見るよりもキャプションを読むほうに一生懸命になっている人をよく目にするし、作品タイトルや解説パネルを見れば作品のことがすべてわかったような気にもなったりする。しかし、今回のようにあらゆる情報がブラインドにされていると、作品そのものをじっくりと観察しようとするし、しかも高額の買い物ではないにしても入札=購入を意識すればなおさらその吟味も真剣味を増す。鑑識眼・目利きが問われるということにもなる。 アートを通じて震災復興を支援したい・しようという様々な動きの、このオークションもひとつになるわけだが、慈善という大義名分に寄りかかるだけでなく、サイレント/ブラインドというスパイシーな味付けを加えたことでアートのイベントとして十分に魅力的なものになっていると思う。省エネでもエコでもチャリティーでも、単純に「楽しい・面白い」ということは持続可能性を考えればとても重要なことなのだ。 展示と入札は7月10日まで。ウェブサイト上でも作品の閲覧と入札ができる仕組み。だったのだけれど、初日からアクセス集中で(同時に15人までしかアクセスできないという今時珍しく弱々しいサーバーらしい)システムがダウンしたので、入札は展示会場のみで受け付けることになってしまった、とのメッセージがウェブサイトに掲示されている。ということで、泣きっ面に蜂のつもりもないけれど下記のリンクでは今でもアクセス情報などは見ることが(たぶん)できるので、ぜひご覧いただきたい。気に入った作品があって、どうしても会期中に会場に行くことができないという方はFAXでの入札も可能。ウェブで作品が閲覧できるようになればの話だけれど(今これを書いている時点ではNG)。 僕は4点の作品にビッドを入れてきた。さて、どれだけ落札されてくるだろうか? http://www.kcua.ac.jp/silent/
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