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『ルネッサンスの光と闇』
最近、『ルネッサンスの光と闇』という本を読み直した。美術史学科の学生の頃にゼミのテーマとの関連で読んで以来だから、もう15年くらいぶりの再読ということになる。著者は高階秀爾。
久しぶりに手に取ったこの本の中に、現代の美術を考える上でも示唆に富んだ部分がいくつかあったので、ここに少し引用してみたい。こういう本を読むと、コンテポラリーアートだのコンセプトだの何だのと言っても、美術史を繙けば本当に新しいことなんかほとんどこれっぽっちもないのだということに気付かされたりする。 まずは「第六章 華麗なる保護者」から。ルネサンス文化の中心として華やかなイメージを持たれている都市国家フィレンツェが、実際には芸術家たちにとっては決して居心地の良い場所ではなく、フィレンツェ出身であってもこの地にとどまって制作を続けた芸術家は多くない、ということが論じられている。以下引用(年代などの漢数字は算用数字に変えた)。 *** 15世紀後半において、フィレンツェで最も優れた工房は、ヴェロッキオとポライウォーロ兄弟のそれであったが、ヴェロッキオの傑作はピストイアとヴェネツィアで生まれ、ポライウォーロの最大の傑作はローマで作られた。レオナルドも、ミケランジェロも、ラファエルロも、フィレンツェの育て上げた天才たちでありながら、ミラノやローマにおいてその天才にふさわしい活躍ぶりを見せた。まことにこれらフィレンツェの子たちは、ヴァザーリの言う通り、「町を去って作品を売」り、それによってフィレンツェの「町の名声を広く世界に伝えた」のである。 ……〈略〉…… もちろん、ロレンツォ(デ・メディチ、豪華王)が芸術家たちを各地に送り出したのを「追放」と見るのはいささか酷であろう。彼にとっては、芸術家たちは邪魔者であったわけではなく、やはり必要な存在であった。しかしそれは、優れた作品を生み出させるためではなく、フィレンツェ芸術の高い名声を利用してミラノやローマやナポリなどと強固で円滑な友好関係を保つための外交手段として必要な存在であった。ロレンツォはミラノの僣主や教皇にとってトスカナ芸術の魅力がいかに大きなものであるかを十二分に心得ていた点において、たしかに「芸術の理解者」であった。しかし彼自身は「芸術愛好家」であるよりもまず「政治家」だったのである。 ……〈略〉…… しかし、といってフィレンツェの衰退をすべてロレンツォのせいにしてしまうわけにもいかない。メディチ家に対する政治的陰謀や、フランス王シャルル8世のイタリア侵攻を別としても、芸術の趣味の領域において、フィレンツェそのもののなかに、桁はずれに大きな創造的芸術家を受け入れないものがあったこともまたたしかだからである。世紀の明けそめた1401年、サン・ジョヴァンニ洗礼堂北側の門扉のために行われた有名なコンクールで最後まで争ったブルネレスキとギベルティの二人のうち、結局最後にギベルティが勝者に選ばれたという事実に端的に示されているように、そもそもフィレンツェ人たちの趣味は、劇的で表現力の強いものよりも、繊細優美で工芸的なものを好んだ。……〈略〉……フィレンツェ人の趣味がそうであるなら、たとえロレンツォがいなくても、遅かれ早かれ芸術家たちはフィレンツェを見捨てたであろう。事実、ロレンツォの死後も芸術家の国外流出は続くのである。 *** 600年以上も前のイタリアの話なのに、どこか今の日本の芸術政策の貧困を憂えた文章にも聞こえてはこないだろうか? もちろん細部を見ていけば全然状況は異なるけれど、「桁はずれに大きな創造的芸術家を受け入れない」などと言われると、思わず自分の胸に手を当てて深く反省したくなったりもする。 http://www.amazon.co.jp/ルネッサンスの光と闇―芸術と精神風土-中公文庫-高階-秀爾/dp/4122014166
by hrd-aki
| 2010-11-10 23:57
| 雑感
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