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あいちトリエンナーレ対中日新聞
先日閉幕したばかりのあいちトリエンナーレについて、地元紙である中日新聞が総括として掲載した「記者座談会」が「酷評」ないしは「中傷」だとして、トリエンナーレの芸術監督がツイッターを使って反論した、というはなしをフェイスブックで目にした。今回のあいちトリエンナーレには行くことができなかったので、個人的に見ていないものを評価も批判もすることは避けたいと思うのだが、メディアの役割や批評、評論ということについてはいろいろ考えさせられたので、このことに限って、自分への覚え書きとしての意味も込めてここに記しておこうと思う。
もちろん中日新聞は購読していないので、件の記事はネットに上がっていたものを全文目を通してみた。アート関係者の間では中日新聞のこの記事に対する反感が非常に強いようなのだが、僕が読んだところ、ジャーナリズム特有の皮肉めいた、やや人を不愉快にさせる視点や物言いが目立つものの、「酷評」というほどのものではなく、提言や提案も多く含まれた「やや前向き」ぐらいの内容なのではないか、という印象を持った。もちろん文章だから捉え方は人それぞれではあるが。 すべての視点をひとつひとつ拾い上げて行くことはできないが、ひとつには、A記者からE記者という5人の記者による「匿名座談会」という形式が批判の的になっている。しかし、記事の末尾には5名の記者の実名が記載されており、匿名での、つまり自分は顔を出さない無責任な悪口、という批判は当たらない。まさか5人の記者が実際にこのような座談会を開いたのだと思っている人はいないだろうと思うが、これはそういう「体」での記事にすぎない。5名の記者の名前が記されている以上、このA記者が誰、B記者が誰、などということには一切の意味がなく、この記事全体の文責はこの5人の記者が共同で負うのだ。だから、この記事は匿名記事ではなく、5人の連名による記名記事なのだ。 中日新聞の社長があいちトリエンナーレの実行委員になっているのに、こうした批判的な記事を掲載するというのは矛盾している、会社としての責任が云々、という指摘も目にした。これは、しかし逆に、称賛すべきジャーナリスト精神の発露と呼べるのではないだろうか? 社長の立場がどうこうということに関係なく、批判すべきものは批判する。新聞社の文化事業部が美術館を借りて主催する展覧会について、その新聞の文化欄にこれを厳しく批判する記事が掲載されることを想像してみてほしい。おそらくそんなことは絶対に起こらないだろうが、それを許容する新聞があれば購読してみてもいいと思うくらいだ。 例えば映画の評論と比べてみれば、「アート」がいかに特権的な高みに上ってしまっているかがよくわかるだろう。映画の評論など、まさに誹謗中傷としか思えないようなものもある。個人的な趣味嗜好だけで(もちろん膨大な数の映画を見てきたうえでのことだろうが)好悪の判断を下している場合もある。それが興行成績に影響を及ぼす場合だってあるだろう。だが、もしその人に好意的な意見を持たせられなかったのだとしたら、それはあくまでもつくり手側の落ち度である。根回し不足も含めて、つくり手側の失敗である。アートも、展覧会も、国際展も、同じことなのではないか? 折角根付き始めた地域の取り組みを、応援すべき地元主要紙が台無しにしようとしている、というような論調も目にした。新聞の役割は、しかし、地域の文化事業の太鼓持ちではないだろう。文化事業は地元のスポーツチームとは違うのだ。それにスポーツチームだって経営や成績が悪化すれば批判の対象になる。 ジャーナリストには公正さが求められるというが、褒めてもらえなかったから公正ではないと言うのはわがままに過ぎない。意見や考えの偏りや知識不足も、どこまでが恥ずべき不見識で、どこからは許容すべきレベルなのか。それを決めるのは誰なのか。少なくともそれはつくり手側の任ではない。自分を批判した記事を逆批判したら、そこに公正さが担保されると考えるのは大きな間違いだ。 新聞だから、公共のメディアだから、などという大時代的な発想は、社会の先端的位置に立つべき現代美術にはそぐわないと思う。新聞など、そもそもその存在自体が最大公約数的で雑駁なものだ。「展示を見ていない人に誤った印象を植え付ける」という指摘も見られたが、それは単純に「見てもらえなかった側」の負けである。 ふと思う。中日新聞にこの記事を書かせたのは、あいちトリエンナーレを今回で終わりにしたい、あるいは予算規模を縮小させたいと思っている行政側の誰かなのではないか、などと。もしそうだとしたら、それはそれで戦うべき相手は中日新聞ではない。 ちなみに、あいちトリエンナーレを実際に見た知人から直接聞いた感想は、残念ながら「酷評」レベルであったことを最後に書き添えておく。
by hrd-aki
| 2013-10-30 01:40
| 雑感
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