京都・鞍馬口の現代美術ギャラリーHRD FINE ART(www.hrdfineart.com)のディレクターによるアート関係諸々ブログ。時にはアートと無関係な話題もあります。気が向いたら更新。
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カテゴリ:雑感( 39 )

ジェビ襲来

日本各地に大きな被害をもたらした台風21号(国際名は「Jebi/ジェビ」)。台風一過の今日、ギャラリーの様子を確認するために自宅のある八尾から京都・鞍馬口までを一般道で車で走ってみた。いつもと同じように、行きは主に国道2号線と国道1号線、帰りは国道1号線のバイパスと国道2号線を通るルート。

昨日は自宅のそばでもケヤキや桜やヒマラヤスギやエンジュの木が何本もなぎ倒されて、改めて強風の威力のすさまじさを思い知らされていたところだったけれど、今日の道中でもたくさんの木が根元からひっくり返り、枝が折れ、そして作業員の方々がチェーンソーで倒木の撤去を急いでいる光景をいくつも目にした。ちらっと通りかかった淀川(大川?)の水位も見たことのない高さになっていたし、枚方のあたりでは信号がことごとくおかしな方向を向いていて、警察官が交通整理をしている交差点もいくつかあった。途中でいくつか立ち寄ったコンビニでは、お弁当やおにぎり、サンドイッチなどが全て消えていて「台風の影響で商品の配送ができていません」というような張り紙が掲示されている店舗や、おそらく停電で温度管理ができなくなったためだろう、アイスやドリンクのコーナーがほぼ空っぽになっている店舗もあった。

で、鞍馬口のギャラリーはというと、2階の窓につけているすだれが1枚を残してすべて吹き飛んだり落下していたり(1枚はおそらくご近所の方が回収して近くに置いておいてくれていた、ありがとうございます)、出窓のガラス窓が外れて中に押し込まれていたり、あと停電のせいで冷凍庫の氷がいったん溶けてまた固まって取れなくなっていたりと、小さなトラブルはいくつかあったものの、それ以外は大きな被害は免れたようでひとまずはホッとした。

隣の御霊神社では、去年10月の台風でも境内の大木が倒れる被害があったけれど、今回もお稲荷さんのそばの大きな木が倒れてしまっていた。絵馬堂も水浸し、他にもたくさんの木の枝が折れてしまったようで、なんとも言えない気分だ。

そんな何とも落ち着かない気分のまま、明日は福岡に飛んで、明後日からはアートフェアアジア福岡2018が始まる。アートフェアの会期と台風が重ならなかっただけでも、個人的にはよかったと思うことにしよう。

***

すだれが1枚だけ屋根にひっかかって残っている図。

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出窓のガラスがずれた。

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御霊神社。見づらいけれど、大きな木が倒れている。

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御霊神社の絵馬堂は水浸しだった。

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by hrd-aki | 2018-09-06 02:19 | 雑感

『日本人にとって美しさとは何か』とは何か

子供とチャンバラ遊びをするためにダンボールと新聞紙で刀をつくっていたときに、押入れの中から2015年12月の京都新聞が出てきた。約2年前の新聞にはどんなことが載ってるのかな、とパラパラと見ていたら、書評欄みたいなところに高階秀爾の記事があったので、切り抜いて、あとで読んでみた。

そしてがっかりした。

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高階秀爾の『日本人にとって美しさとは何か』という著書を紹介するための記事で、その本を僕は読んでいない。だからその本の内容についてはこの記事から判断するしかなく、この記事がその本に関するすべてを言い尽くしているわけではないだろうということも理解しているのだけれど、買って読んでみようという気はゼロになってしまったのでそのことを検証する機会もたぶんこれから先訪れることはないだろうという気がする。

「日本人の美意識は細やかで柔軟。西洋とは違う、独特のものです」という高階氏の言葉が記事の冒頭で紹介されている。これがこの『日本人にとっては美しさとは何か』という本の基調をなす考え方なのだとすると、日本人には四季を愛でる繊細な感性があって、世界の中でも独自の美を生み出してきた、という使い古されたクリシェに乗っかっただけの、まともに取り上げるに値しない粗雑な論考だということに、残念ながらなってしまうだろう。

「季節のうつろいを楽しむ感覚、余白や不完全なものを美しいと思う心。こうした美意識は〈中略〉日本文化全体の根底を流れている」という言葉が記事の中に出てくる。これは高階氏の言葉ではないが、こうした「美意識」が、しかし、日本文化全体の根底を流れているという仮説にはいくらでも反証を挙げることが可能だし(例えば「洛中洛外図」や平安の「源氏物語絵巻」あたりは「余白を美しいと思う心」の発露などかけらも見えない)、それが日本以外の国や国民には全く存在しないということも単純にありえない(不完全なものを美しいと思う心は、古くはレンブラント、新しくはサイ・トゥオンブリーあたりを見れば西欧文化にも存在していることはすぐにわかる)。

四季があるのも日本だけではないし、その四季のうつろいに美を見出して芸術の中で表現してきたのももちろん世界の中で日本人だけではない。日本では古くから中国の漢詩が基礎教養として位置づけられてきたわけだが、漢詩にももちろん季節感を表現したものは多くあり、それが和歌や俳句の世界にも引き継がれていることは疑いの余地がない。西洋美術を見ても、ブリューゲルの冬景色などは繊細で美しいし、アルチンボルドもミュシャも四季をテーマにした作品を残している。日本美術の表現と違うからといって、ヨーロッパの画家たちが四季を愛でる心を持っていなかったなどと断じることはできない。逆に浮世絵版画の大首絵などには季節感を感じさせるものは(当たり前だが)ほとんどない。

記事の中で特に大きく紹介されているのが、江戸末期から明治初期に西洋絵画導入の先駆けとなった司馬江漢や高橋由一らの「和製油画」(高階氏の造語らしい)だ。西洋の油彩画の模倣をしようとしたのだが、そこに日本的なものが巧まず無意識のうちに入り込んでしまって、日本独自の油彩表現が生まれた、という分析なのだが、これにしても日本以外のアジア諸国における油彩の導入との比較なしに「日本は独特」と決めつけてしまうのは無理があるだろう。

確かに、東アジアにおいては日本がいち早く西欧文化を取り入れた近代化に成功し、その後軍事的にも経済的にもアジアに進出し植民地化も進めたので、中国や朝鮮半島における西洋文化・西洋美術の受容の一部は日本というフィルターを通したものであったという側面は否定できないし、そのせいで日本と他のアジア諸国との間にフラットな比較が成り立ちにくいというのも事実ではある。しかし、そうであればこそ、日本が文化的に独特でユニークである、したがって西洋絵画の受容のあり方も独特でユニークであった、という主張については、大きな留保マークを付けておかなければならないのではないだろうか。歴史政治的な要因と文化的な要因を混同してはならない。

少なくともこの記事から読み取る限り、この本には「アジアの一部としての日本」という視点が完全に欠落している。西洋対日本という軸だけが存在していて、その他の国々や人々はすべて捨象されている。そしてその「日本」にはおそらく沖縄や奄美、そしてアイヌも含まれてはいない。ここ最近この社会に蔓延している「日本すごい」の自国礼賛、自己満足の軽薄さだけが色濃く漂っている。

翻って考えてみれば、モネの絵画を見て「フランス人独自の美意識」と呼んだり、ミケランジェロの彫刻を前にして「完璧さを追求するイタリア人ならでは感性」などと分析することなどありえないではないか(イタリア人が完璧主義者だって?!)。なぜ日本文化を取り上げるときに限って「日本的」とか「日本独自の」とかいう国民国家的な形容をつけなければ気が済まないのだろうか。しかも同じ日本人の表現の中に細かい差異を読み取ることができるはずの我々日本人自身が。

文化や芸術の面白さは、人が生み出した(そして生み出している)ものだということだろう。生まれ育った環境や自然や生活文化や時代背景の影響はもちろん否定できないが、もしもそれらが全てを規定するのだとしたら、同じ時代の同じ場所からは全く同じ表現しか生まれないということになってしまう。

日本の風土や自然に根ざした「日本的」な美意識や感性が存在することは否定しない。美術史家がやらなければならないのは、その存在をアプリオリな前提として「西洋とは違う、独特のものです」などとシンプルな二項対立を設定して自国礼賛を煽り立てることではなく、なぜそのような美意識や感性が生まれたのかを深く掘り下げ、比較分析し、微細な現象の在り様を解き明かしていくことなのではないか。と、午前4時過ぎの粗雑な思考で考えている。

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by hrd-aki | 2018-01-30 04:59 | 雑感

共謀罪法案に反対します

HRDファインアートの代表である原田明和は、共謀罪法案に反対する。

様々な犯罪を計画準備段階で摘発できるようにするという法律で、政権与党(自民党・公明党)は「テロ等準備罪法案」などと呼称しているが、その実体はテロ対策などでは決してない。真の目的は心の自由を取り締まることにある。

対象となる法律には著作権法や商標法、意匠法なども含まれており、パロディやパスティーシュ(模倣)、アプロプリエーション(流用)などに代表されるようなアートの表現手法が大きく制約を受ける危険性がある。また組織的犯罪処罰法の「組織的な信用毀損・業務妨害」も対象になっているが、これによって特定の企業や団体、政党などを批判したり風刺したりする社会的な芸術表現も制約を受けることになる。

問題は、こうした行為を実際に行わなくても、それを共同で準備したことが犯罪と見なされ処罰の対象となるということだ。運用の恣意性も排除されていない。このことの検閲的・圧迫的な心理効果は重大だ。

こと現代美術に限らず、芸術と呼ばれるものにはすべて「これまでとは違う新しい見方や考え方を提示する」という機能・役割が備わっている。本質的に均質を嫌い、「違う」ことを是とするためにともすれば論争を巻き起こし反感を招くこともある芸術表現は、むしろだからこそ存在価値があるのだ。そうした機能・役割に制限をかければ、芸術はその存在意義を失ってあっという間に社会から姿を消してしまうだろう。

芸術を失い多様性を失った社会は、果たして魅力的な社会と言えるだろうか? 再び言おう。HRDファインアートの代表・原田明和は、個人として、共謀罪法案に反対する。

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by hrd-aki | 2017-06-15 03:54 | 雑感

『現代絵画』

古本屋で「保育社カラーブックス」シリーズの『現代絵画』を見つけた。著者は高階秀爾(このブログではだいぶ前に『ルネッサンスの光と闇』という本のことを取り上げたことがある)。

カラーブックスのシリーズは、動物や植物なんかのテーマ巻が子供の頃家に何冊かあったし、図書館にもずらりと並んでいた記憶があり、その装丁(ビニールカバーがかかっている)もなんとなくなつかしくて100円で購入した。マティスの表紙もビビッドでいい(ビニールカバーは破れていたので取って捨てた)。

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「カラーブックス」という名前の印象とは裏腹にカラー図版は案外少なくて、モノクロと半々くらい。カラーページとモノクロページが見開きで交互に出てくる構成になっている。初版1964年という時代を考えると、それでも当時としては十分に破格の出版物だったのかもしれない。

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取り上げられているのは、当然ながら1964年時点での「現代絵画」なので、19世紀末から20世紀初頭にかけてのヨーロッパ美術、ナビ派からフォーヴ、シュルレアリスムといったあたりから、最新でもポロックやロスコなどのアメリカ抽象表現主義までといった範囲で、今イメージする「現代絵画」や「現代美術」とはかけ離れている。そもそも表紙からしてマティスだし、そのあたりの「現代」の変化にも思いを巡らせるとちょっと面白いし、一般向けに書かれているとはいえ20世紀美術を改めて概観するのにはちょうどいいボリューム感だった。

そして、この本で一番びっくりしたのが、著者紹介のページ。写真の高階さんがものすごく若いのはさておき、「現住所」がマンションの部屋番号まで堂々と載っているのにはたまげた(部屋番号には念のためモザイク、意味ないと思うけど)。この当時はそういうものだったのかもしれないし、美術史家の自宅に押しかけたり、「なんでデュシャンの図版がカラーじゃないんだ!」とカミソリを送りつけたりする人もそんなにたくさんはいないとは思うけれど、著者の個人情報をこんなふうに出版物にさらけ出してしまうというのは今だったらとても考えられない。こんなところにも時代の変化は表れているなあ、と、本の内容とは全然関係のない感慨を抱いてしまったのだった。

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by hrd-aki | 2017-02-18 15:19 | 雑感

名前のこと

どれくらい前のことだったか、そしてそれが新聞だったのか雑誌だったのかも今となっては覚えていないけれど、日本在住のユダヤ系アメリカ人でスティーブンと名乗る人物の読者投稿にこんなことが書いてあった。

自分の名前(ファーストネーム)はStephenと書いて「スティーブン」と読む(実はこれはあまり知られていないけど英語圏では普通の話)。それが、どこかの新聞か何かのインタビューか何かで自分が紹介されたときに、名前が「ステファン」とドイツ風に表記されていた。これは自分にとって屈辱以外のなにものでもない。自分の祖先は第二次大戦時にユダヤ迫害を逃れてフランスからアメリカに渡ってきた。そのユダヤ迫害・虐殺の犯人であるドイツ人と同じ読み方で自分の名前が呼ばれるなんて、決して許すことはできない! 強く抗議したい!

……と、まあ、なんというかものすごく頭が悪くてかわいそうになってしまったわけだけど、まず第一に「ステファン」はフランス語読みであってドイツ語読みではない。ドイツ語なら「シュテファン」。つづりもStefanになる。そのぐらいの基礎知識もなくてよくこんな主張ができたものだと思った。

もちろん、自分の名前が正確に表記されないのはちょっと悲しいことなので(僕も小学生の頃は自分の名前を「あきかず」と正しく読んでもらえる確率はすごく低くて、いつも「かずあき」と呼ばれて、それでも訂正するのが面倒くさくて「はい」と答えてたなあ、と思い出した)、それを難じること自体は別に構わないとは思うけど、それならそれで「私の名前はスティーブンです、ステファンではありませんから間違えないでください」とだけ関係者に要請すればそれで済む話なのではないか?

個人的にドイツやドイツ人が嫌いならそれも仕方ないかなとは思う。家族史に刻み込まれた苦難の記憶はそう簡単には消せないだろう。しかし、ドイツ人であること、あるいはドイツ風の名前を持っていることとユダヤ迫害との間には(少なくとも現在においては)本質的なつながりはない。そんなこと言い出したらジューイッシュはアディダスの製品なんか一切使えなくなっちゃう(アディダスの創業者はナチスの領袖と同じファーストネームの持ち主、アドルフ・ダスラー。「アディダス」の社名はアドルフの愛称アディとダスラーのダスをくっつけたものだから、スティーブン某氏の論理を借りればナチスドイツそのものの名前ということになる)。この主張なら、そもそもドイツ系と混同されてしまうような名前をつけた自分の親を詛うべきだろう。

ナチス関係の名前ついでで思い出したので昔話をもうひとつ。高校の英語の授業で『アンネの日記』の一節(もちろん英語訳の抜粋)が教科書に載っていた。補助教材の音声テープでは、アンネの名前(Anne Frank)を女性ナレーターが英語風に「アン・フランク」と発音している。それを聞いた英語教師が、「『アン』っていうのが正しい読み方なんだな、『アンネ』っていうのは間違いなんだな」と得意気に言っているのを聞いて、いや、それは英語読みだから、アンネはオランダ人だからオランダ語の発音で「アンネ」でいいんだから、それヨソで言うなよ恥ずかしいから、と内心苦々しく思ったものだった。

現在HRDファインアートで開催中の二人展の展示作家のうちのひとり、「冬耳」は、もちろんアーティストネームで、読み方は「ふゆじ」です。「ふゆみみ」と読む人が案外多いようなので、念のため。

http://www.hrdfineart.com/exb-yami16.html
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by hrd-aki | 2016-04-11 12:33 | 雑感

PRAY FOR KOREA?

アートに関係ないことをあまり続けて投稿するのは気が引けるのだが、韓国ではこれまでたくさん仕事をさせてもらってきたし、今でも韓国にはたくさんの友人がいる。国として(国家として)好きかと言われるとやや答えをためらうけれど、韓国の人たちは大好きだし、韓国の食べ物も大好きだ。だから敢えて書いておこうと思うのだけれど(日本語だからどこまで伝わるかわからないし、伝わらなかったらそれでもかまわないのだが)、「PRAY FOR KOREA」というスローガンはやめたほうがいい。

パリでのテロ事件に対して、犠牲者との連帯を示す「PRAY FOR PARIS」というスローガンがネット上にあふれている。それと偶然時期を同じくして韓国ソウルで起きた反政府・労働組合系のデモ隊と警察機動隊との衝突、それによって負傷者が出たことに対して「PRAY FOR KOREA」というスローガンが韓国人の友人の間でたくさん共有されているのを目にした。

しかしこれははっきり言ってどこかズレている。だからやめたほうがいい。

現政権への批判から歯止めが利かずに暴走したデモ隊に対して、警察権力がさらに上を行く暴力的な実力行使に出たこと自体は憂うべき事態だし、公権力が市民の生命を危機にさらしたことは非難されてしかるべきだろうとは思う。しかしそれは決して「祈り」にはつながらないと思うのだ。

「PARIS」がテロ攻撃の対象として傷ついた人々を象徴するキャッチワードになっており、そしてそれが(パリという都市だって決して一枚岩ではない、ということは承知の上で)一定の論理性を持っていることにはそれほど疑いの余地はない。それに対して、「KOREA」は決してそういう存在ではない。ここでは、攻撃した側も攻撃を受けた側もどちらも「KOREA」であり、我こそが「KOREA」であることを主張しているからだ。だから衝突が起こった。デモ隊が退陣を要求した朴大統領も間違いなく「KOREA」の一部であって、それだけでもすでにこのスローガンは論理的に大破綻している。それに、どちらか一方が理性的に行動しさえすれば簡単に防ぎ得た事態に対して、外部の人間は憐れみや驚きは感じこそすれ、祈りや連帯感の行き場などどこにもない。

大変失礼ながら、「PRAY FOR KOREA」には、たまたま時を同じくして世界を駆け巡った「PRAY FOR PARIS」の安っぽいパロディみたいな響きさえある。

自分の国のことは敢えて棚に上げておいて言うのだが、韓国の大統領は選挙で選ばれている。デモ隊を暴力的に鎮圧する大統領も数年前に選挙で選ばれた。そして、今回のような「ソウル市庁舎前広場放水銃事件」は、これまでも何度も何度も、誰が大統領であっても、繰り返されてきたことだということを思い出す必要がある。

「私たちは酷い目に遭っている!」と犠牲者を気取るのではなく、そろそろ自分たちが変わる・変えることを考えたほうがいい。あなたが使うべきスローガンは「PRAY FOR KOREA」ではなくて「CHANGE KOREA」であるべきなのだ。

自戒を込めて。
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by hrd-aki | 2015-11-15 23:44 | 雑感

パリ、1996年、2000年

22歳の3月にパリに数日間滞在した。1996年のこと。初めての海外だった。地下鉄を乗り間違えたりして、サンラザール駅近くのホテルに到着したのは深夜のことだった。ホテルのフロント係の若者は、僕が美術史の学生だと話すと、自分はバスチーユの近くで現代美術のギャラリーを運営していて、収入のためにホテルでアルバイトをしているのだ、と話してくれた。その当時は現代美術には全くと言っていいほど興味がなかったし(だから彼が住所を教えてくれたギャラリーにも行かなかった)、自分もいずれギャラリーをやることになるなどとは夢にも考えていなかったのだから、不思議なものだ。

2000年、再びパリを訪れた。今度は旅行代理店のフリーツアーみたいなものを利用したので、帰国の日にはホテルから空港までの送迎サービスがついていた。安ホテルの狭いロビーで待っていると、現れたのは上下アイボリーホワイトのスーツに身を包んだ細身のかっこいい若者だった。まだ十代かと思うくらいの見た目で、僕も若く見える(見えた)ほうだけれど明らかに彼は僕よりも年下だった。肌の色からも身なりからも北アフリカ系であることは疑いようがなかった。なまりはあるものの英語をすらすらと話す。「ミスター・アハダは君か?」と聞いてきた。HARADAをフランス語的に発音するとそんな感じに聞こえるのだ。

彼が乗ってきた車はごく普通のセダンで、自家用車といった趣だった。きっと自分の車をこうして仕事にも使っているのだろう。今日乗せる客は僕一人なのだという。空港までの数十分間の二人きりのドライブで、自然といろいろ話をした。名前も聞いたような気がするけれど、もう忘れてしまった。自分でアルジェリア出身だと言っていたような気もする。

日曜日のパリはお店がほとんど閉まっていて困った、と話すと、それは今が「パック」だからだ、と言う。「パック」というのはイースターのことだ。4月下旬、確かにちょうどその年のイースターの時期に当たっていた。そう言われるまで全く意識していなかったので、なるほどと思い、フランスではイースターにはいろいろお祝いしたりするのか、と訊いてみた。返ってきた言葉は、「オレはムスリムだからよく知らないよ」というものだった。

なんだかとても失礼な、無神経な話をしてしまったようで、自分が恥ずかしくなった。ところが彼は特に頓着する様子もなく、話の流れそのままに「日本にはムスリムはたくさんいるのか?」とか「君はどんな宗教を信仰してるんだ?」などと質問してきた。僕が無宗教だと答えると、「神は信じたほうがいい。どんな神でもいいからね」と、大真面目な顔で忠告してくれた。ちょうどそのタイミングで車がシャルルドゴール空港に到着したことを覚えている。あるいは、ターミナルの前に車を停めて、僕の荷物を下ろしているときにそんなことを言ってきたのだったかもしれない。

当時は中東情勢の中心はパレスチナで、今ほど全体的に混迷を極めてはいたわけではないけれど、ヨーロッパではアフリカや中東からの移民の増大とその社会的受容がすでに大きなテーマになっていた。この2年前の1998年に母国で開催されたワールドカップで優勝したフランス代表チームは(アルジェリア系移民の子であるジダンをはじめとして)移民やその子孫が大半を占めていて、多文化主義を象徴しているとして話題になったりした。15年前も、15年後の今も、問題の本質は大きくは変わっていないように思う。

19年前と15年前。その後も何度か訪れたけれど、パリは何か僕の中に特別な感情を抱かせてくれる場所になっている。
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by hrd-aki | 2015-11-15 02:36 | 雑感

やぶれかぶれでどろどろとして情念的で粘着質ではないものについての評論について

2013年10月号は大竹伸朗特集だったので久々に「美術手帖」を買って読んでみた。大竹節とも呼ぶべき作家本人の言葉にはやはり格別な説得力がある。圧倒的に面白い。そしてせっかく買った雑誌なので他の記事、特に展論のページなどにも目を通してみた。そして、何ともがっかりしてしまったのであった。

がっかりした理由はいろいろあるのだけれど、そのひとつが「REVIEWS」という展評コーナーの評論文の一本で、五十嵐太郎という建築史・建築批評家が書いた「『具体』の揺れ動く幾何学の絵画」と題する文章だ。五十嵐氏はあいちトリエンナーレ2013の芸術監督を務め、地元紙記者による「酷評」にツイッターで反論した件の人物である。僕は個人的には面識はない。

「宮城県美術館で開催されているゴッホ展を見に行ったら、むしろ同時開催されていた小企画展の菅野聖子が素晴らしく、その印象が強く残った」という一文で始まるこの小文は、他の評論文と比べても特にひどいものだった。論旨らしきものが存在しないのはその紙幅の制約から仕方がないとしても、内容が適当すぎる。仮にも国際美術展のディレクター的な立場にある人物が美術専門雑誌に寄稿する美術評論文として、本当にこれでいいのかと唖然としてしまうような代物だったので、ところどころ抜き書きして批判めいたことをしてみようと思う。まずはこの部分。

〈……なるほど、具体美術協会に関わっているが、あまり具体美術協会的でもない。具体は明快なスタイルが定義されるわけではないが、筆者の私見では、やぶれかぶれであったり、どろどろとした情念的なものを感じる。とくに海外で日本の現代美術を見ると、そうした傾向がより際立つように思う。また具体は後に、ミシェル・タピエにより「発見」され、日本版の抽象表現主義的な作品に回収されている。
だが、菅野の作品にはこうした日本的などろどろとした暗いものがほとんどないのが特徴である。……〉

具体には明快なスタイルがないと認めながら、返す刀で「やぶれかぶれ」で「どろどろ」で「情念的」という「私見」を披露する。そしてそれが次の段落では「こうした日本的などろどろとした暗いもの」と「私見」を超えた普遍的な定説であるかのように語られている。その間に挟まった一文の「とくに海外で日本の現代美術を見ると」というところでは、具体の名前すら消えて「日本の現代美術」一般の話になってしまっている。しかも「海外で見ると」ときた。これは宮城県美術館の企画展の話なのではないのか? 一体何をおっしゃっているのだろうか?

具体が「やぶれかぶれ」で「どろどろとした情念的なもの」であるという五十嵐氏の「私見」も、具体のどこを見るとそのような解析や結論が生まれるのかさっぱりわからない。「どろどろとした」というのは例えば白髪一雄や元永定正の初期の絵画のことだろうか? 確かに彼らの描く画面上では絵具はどろっとした質感を見せているが、それを「どろどろとした」と形容するのはちょっとおかしい。白髪の制作手法はむしろ情念的なものを排除し身体性を前面に押し出した成果と見るべきだろうし、元永の作品もまた絵具の物質性に寄り添った実験と見るのがしかるべきだと思う。それに、具体の中心人物である吉原治良の後年の「円」のシリーズに「やぶれかぶれ」や「どろどろ」を、どうやったら見出せるのか教えてほしい(待てよ、「やぶれかぶれ」は多少当たってるかもしれないな)。五十嵐氏の中ではもしかすると具体とネオ・ダダや九州派がごっちゃになってしまっているのでは、という疑念すら沸く。

具体を規定する特定のスタイルが存在しないのは、その成立の経緯からしてもそれこそ明快な事実である。それを、自分が持っている根拠薄弱な固定観念から(それを今一度、簡単に検証することすらせずに)「具体はやぶれかぶれのどろどろしたスタイルなのに、具体らしくない具体の作家の作品を見た!」という印象だけで書き切ってしまった、これは展覧会感想文なのだろう。それが美術専門雑誌に載ってしまうという状況が悲しみを誘う。

上に引用した部分の直前にもかなりすごいことが書いてある。

〈……昨年以来、国内外の大型の回顧展によって「具体」の再評価が進むなか、女性作家と言えば、田中敦子のイメージが圧倒的に強い。しかし、今回の小企画展は、菅野のような強度をもった女性アーティストがいたことをきちんと教えてくれる。……〉

具体の中でも傑出した存在であった田中敦子が強いイメージを持っていることについては疑義を差し挟む余地はないが、田中敦子の名前を挙げたあとに「しかし……菅野のような強度をもった女性アーティストがいた」と書いているということは、五十嵐氏の中では田中敦子は強度を欠いた女性アーティストだという評価なのだろう。「強度」が何を指すのかがそもそも曖昧にすぎるし、女性アーティストであることをことさらに切り口にして二人を並べることの意図も理解に苦しむ。あるいは田中敦子が菅野聖子に対する比較対象ではないとすれば、五十嵐氏が考える、具体の、強度を欠く女性アーティストとは誰と誰のことなのか、是非とも教えてもらいたい。なぜなら、消去法で考えれば、彼ら(彼女ら)こそがやぶれかぶれでどろどろとした情念的なものを感じさせる日本的なアーティストであるに違いないからだ。

さらに引用。

〈……作品タイトルからレヴィ=ストロースの影響もうかがえる。抽象的な形態を使う視覚詩にも挑戦した。そうした意味で個人の内面を文学的に表出するタイプではなく、理科系のアーティストと言えるかもしれない。……〉

レヴィ=ストロースの影響というのは、図版に挙げられている作品の《レヴィ=ストロースの世界Ⅲ》というタイトルから来ているのかもしれないが、これをもって(これだけではないにせよ)理科系と言ってしまう神経が知れない。僕は別にレヴィ=ストロースに詳しくはないけれど、社会人類学の泰斗には理科系とか文科系とかいった区分けが似つかわしくないことぐらいはわかる。何なんだこの雑な感じは。

最後に結びの部分を引用するが、ここにいたってはすごすぎてコメントのしようがないのでコメントしない。

〈……あまり粘着質の日本的なものを感じさせないのも、普遍言語の数学や幾何学への関心ゆえだろう。クールでカッコいい絵画である。〉

おかしな部分を恣意的に抜き出して批判のための批判をしているだけだろう、と思われる向きには、是非「美術手帖」2013年10月号を手に取って170ページを一読することをおすすめしたい。本当に何の分析も資料的・史料的裏付けもなく、思い込みと感想だけで書き散らかした文章としてしか読めないことがきっとおわかりいただけるはずだから。具体の関係者はすでに鬼籍に入ってしまった人がほとんどなので、反論される心配もないと思ったのだろうか。こんなものを平気で活字にできてしまう「批評家」が、自らが統括したイベントに対する新聞記者の批判には「事実に基づいていない・敬意に欠ける」などと大上段から攻撃できてしまうんだなあ、という驚きも手伝って、余計にがっかりしてしまったのであった。

それにしても、「クールでカッコいい絵画」って……。

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by hrd-aki | 2013-12-09 01:01 | 雑感

あいちトリエンナーレ対中日新聞

先日閉幕したばかりのあいちトリエンナーレについて、地元紙である中日新聞が総括として掲載した「記者座談会」が「酷評」ないしは「中傷」だとして、トリエンナーレの芸術監督がツイッターを使って反論した、というはなしをフェイスブックで目にした。今回のあいちトリエンナーレには行くことができなかったので、個人的に見ていないものを評価も批判もすることは避けたいと思うのだが、メディアの役割や批評、評論ということについてはいろいろ考えさせられたので、このことに限って、自分への覚え書きとしての意味も込めてここに記しておこうと思う。

もちろん中日新聞は購読していないので、件の記事はネットに上がっていたものを全文目を通してみた。アート関係者の間では中日新聞のこの記事に対する反感が非常に強いようなのだが、僕が読んだところ、ジャーナリズム特有の皮肉めいた、やや人を不愉快にさせる視点や物言いが目立つものの、「酷評」というほどのものではなく、提言や提案も多く含まれた「やや前向き」ぐらいの内容なのではないか、という印象を持った。もちろん文章だから捉え方は人それぞれではあるが。

すべての視点をひとつひとつ拾い上げて行くことはできないが、ひとつには、A記者からE記者という5人の記者による「匿名座談会」という形式が批判の的になっている。しかし、記事の末尾には5名の記者の実名が記載されており、匿名での、つまり自分は顔を出さない無責任な悪口、という批判は当たらない。まさか5人の記者が実際にこのような座談会を開いたのだと思っている人はいないだろうと思うが、これはそういう「体」での記事にすぎない。5名の記者の名前が記されている以上、このA記者が誰、B記者が誰、などということには一切の意味がなく、この記事全体の文責はこの5人の記者が共同で負うのだ。だから、この記事は匿名記事ではなく、5人の連名による記名記事なのだ。

中日新聞の社長があいちトリエンナーレの実行委員になっているのに、こうした批判的な記事を掲載するというのは矛盾している、会社としての責任が云々、という指摘も目にした。これは、しかし逆に、称賛すべきジャーナリスト精神の発露と呼べるのではないだろうか? 社長の立場がどうこうということに関係なく、批判すべきものは批判する。新聞社の文化事業部が美術館を借りて主催する展覧会について、その新聞の文化欄にこれを厳しく批判する記事が掲載されることを想像してみてほしい。おそらくそんなことは絶対に起こらないだろうが、それを許容する新聞があれば購読してみてもいいと思うくらいだ。

例えば映画の評論と比べてみれば、「アート」がいかに特権的な高みに上ってしまっているかがよくわかるだろう。映画の評論など、まさに誹謗中傷としか思えないようなものもある。個人的な趣味嗜好だけで(もちろん膨大な数の映画を見てきたうえでのことだろうが)好悪の判断を下している場合もある。それが興行成績に影響を及ぼす場合だってあるだろう。だが、もしその人に好意的な意見を持たせられなかったのだとしたら、それはあくまでもつくり手側の落ち度である。根回し不足も含めて、つくり手側の失敗である。アートも、展覧会も、国際展も、同じことなのではないか? 

折角根付き始めた地域の取り組みを、応援すべき地元主要紙が台無しにしようとしている、というような論調も目にした。新聞の役割は、しかし、地域の文化事業の太鼓持ちではないだろう。文化事業は地元のスポーツチームとは違うのだ。それにスポーツチームだって経営や成績が悪化すれば批判の対象になる。

ジャーナリストには公正さが求められるというが、褒めてもらえなかったから公正ではないと言うのはわがままに過ぎない。意見や考えの偏りや知識不足も、どこまでが恥ずべき不見識で、どこからは許容すべきレベルなのか。それを決めるのは誰なのか。少なくともそれはつくり手側の任ではない。自分を批判した記事を逆批判したら、そこに公正さが担保されると考えるのは大きな間違いだ。

新聞だから、公共のメディアだから、などという大時代的な発想は、社会の先端的位置に立つべき現代美術にはそぐわないと思う。新聞など、そもそもその存在自体が最大公約数的で雑駁なものだ。「展示を見ていない人に誤った印象を植え付ける」という指摘も見られたが、それは単純に「見てもらえなかった側」の負けである。

ふと思う。中日新聞にこの記事を書かせたのは、あいちトリエンナーレを今回で終わりにしたい、あるいは予算規模を縮小させたいと思っている行政側の誰かなのではないか、などと。もしそうだとしたら、それはそれで戦うべき相手は中日新聞ではない。

ちなみに、あいちトリエンナーレを実際に見た知人から直接聞いた感想は、残念ながら「酷評」レベルであったことを最後に書き添えておく。
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by hrd-aki | 2013-10-30 01:40 | 雑感

タクシードライバー・イン・ソウル

栗原亜也子が参加している韓国・ゴヤン市のアラム美術館でのグループ展のオープニング・レセプションに参加するために6月に韓国を訪れた。

写真はアラム美術館のグループ展「Heritage 600 Tomorrow 600」の栗原の作品展示の様子。観客参加型の作品もあり、横浜のBankARTのアーティストスタジオと韓国をつないでインタラクティブに制作した作品も8月に入って追加されているので、今では展示の様子はオープニング当時からはだいぶ変化している。

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ところで、今回はこの展覧会の話ではなく、滞在中のソウルで乗ったタクシーのドライバーの話が面白かったので、アートとはあまり関係ないけれどそのことについて書き留めておこうと思う。すでに2カ月以上の時間が経過して記憶がだいぶ色褪せてしまっているのだけれど、思い出せるだけのことを書いておこうと思う。

イテウォンでタクシーをつかまえて、マポにあるホテルまで走ってもらった。行き先の指示を韓国語でやったので、どうやら普通に韓国人だと思われてしまったらしく、何か話しかけてくるのだけれどちょっとわからない。日本人だから韓国語わからないんですよ、と告げると、韓国語うまいし(いや、そんなことはない)、顔も日本人らしくなくて韓国人っぽいから(よく言われるけどそうなのか?)韓国人だと思ったよ、などなど定番の挨拶から、ソウル暑いでしょう、いや、日本ももっと暑いですよ(ちょうど関西が猛暑に見舞われていた時期だった)、観光ですか? いや、仕事で、といった感じで当たり障りのない世間話を簡単な韓国語でしていて、どういう話の流れだったか忘れてしまったのだけれどもいつの間にか日韓関係の話になった。

細かいパーマをかけた長髪というロックな(?)外見のドライバー氏の話をざっくりと(多少の脚色付きで)まとめると次のようになる(もちろん僕の韓国語聞き取り能力は甚だ心もとなく、確実に理解できるのは20%ぐらい、30%は類推と推測で補い、50%はさっぱりわからない、という程度なのだけれど、何を言おうとしているのかはわりとはっきりと伝わってきた)。

「ほら、安倍とかがいろいろ言われてるけどさ、あとトクトとか、いろいろ問題になってるけどさ、日本人も韓国人も基本的には同じだと思うんだよね、オレは。どっちにも悪い奴もいるし、いい人もいる。オレも日本人の知り合いがいるけど、とてもいい人たちだよ。実際に会って話をしてみないとわからないよね。だからさ、日本人だからダメとか、韓国人だからいいとか、そういうのはおかしいと思ってるんだよね」

本当はもっといろいろしゃべっていたと思うのだけれど、僕の能力では残念ながらこのくらいしか再現できない。もちろん、韓国語をちょっと話す日本人客に対するリップサービスという面も多分にあったのかもしれないけれど、彼のような公平なものの見方は僕がこれまで何回も韓国に行って出会い話をしてきた韓国人たちから感じるおおかたの皮膚感覚と共通するものだったので、とても自然に聞こえたのだった。何か無理して言っているような感じもしなかった。なによりも、こういう言葉を、英語も日本語も話せない、おそらくそれほど学歴が高いわけでもない、市井の韓国人から韓国語で直接聞くことができたのは初めてのことだったので、とても強く印象に残ったのだ。

よく考えると彼はごくごく当たり前のことしか言っていない。でもなぜこんなに強く印象に残ったのかを考えてみると、韓国の人は日本に対して常にバイアスのかかった見方しかしないというステレオタイプに僕自身が知らず知らずのうちに流されていたということなのではないかと思い当たった。上にも書いたように僕は韓国人の友人も多いし、彼らの多くがどういう考え方なのかも大体はわかっているつもりだけれど、そういう実際の実感とはかけ離れた、メディアによって植え付けられた硬直的なイメージみたいなものが自分の中にもどうしても入り込み、育ってしまう。

それを自然なかたちで気付かせてくれたソウルのタクシードライバー氏には、よほどの偶然でもなければもう二度と会うこともないだろうけれど、「ありがとう」と言いたい気分なのだ。

写真は別のタクシードライバーさんの後ろ姿(本文とは無関係)。

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***

栗原亜也子が出品している「Heritage 600 Tomorrow 600」展は、ゴヤン市・アラム美術館にて8月25日まで。

http://www.artgy.or.kr/Foreign/english/aram/current_exhibition.html
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by hrd-aki | 2013-08-09 00:30 | 雑感