京都・鞍馬口の現代美術ギャラリーHRD FINE ART(www.hrdfineart.com)のディレクターによるアート関係諸々ブログ。時にはアートと無関係な話題もあります。気が向いたら更新。
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淡路島で創作衝動について考える

先日、淡路島を初めて訪れた。高松に行くときに高速バスで通ったことはあったけれど、きちんと足を踏み入れるのは今回が初。クルマで島をほぼ一周まわってみた。案外広い。地図で見ると琵琶湖と大体同じ大きさ。

最初は美術館や博物館等があれば見てみようと思って出かけたのだが、結局ただのドライブになってしまった。理由は、見るべき価値を感じる施設がひとつもなかったからだ。かわりにいろいろとヘンなモノに出くわすことになった。その筆頭が「世界平和大観音」だ。

島の東側を海岸沿いに走る国道を南下していると、遠くに巨大な何かが屹立しているのが目に飛び込んでくる。近づいていくと、これが全国各地に多数存在している巨大仏像・観音像の類いだということがわかる。白塗りで、かなり大きい。そして、かなり美しくない。造形力不足、完成度の低さが並大抵のものではないのだ。ひとことで言って醜い。

a0123573_17335898.jpg

この建造物(寺院や宗教施設ではなく、実際は「観音」と名前がついているだけの観光施設、しかも今は閉鎖されている)については、以下のウェブサイトに詳しい情報が載っているので、興味のある方はそちらを見てみてほしい。今回はクルマで通り過ぎただけなので近くでじっくりと見ることはできなかったが、次に淡路島に行く機会があればぜひともつぶさに観察してみたい。倒壊の危険もあるとのことなので、あまり近づかないほうがいいのかもしれないが。

http://www7.plala.or.jp/tower/awaji/sekaiheiwadaikannon.html
http://www41.tok2.com/home/kanihei5/heiwadaikannon.html

淡路島には「淡路城」というお城もある。日本の近世風の城郭の隣には西洋の古城風の建物が並んで建っていて、きっとラブホテルと間違えて入ってしまう人もいるのではないかと心配になる。入り口には韓国でよく見かける「トルハルバン」みたいな巨大な石像が2体、狛犬か仁王像よろしく両脇に立っていて、ここがどこなのかよくわからなくなる。この淡路城、もちろん本物の城なんかではなくて、個人の美術館だか博物館だかのようだ。淡路には「洲本城」という、国の史跡に指定されている立派な城もちゃんとあるのだが、それとこれとは全く関係がない。

他にも、淡路の特産品タマネギをモチーフにした観光案内板(?)があったり、大観音よりははるかに小さいものの全身ブルーが印象的な道ばたの観音像など、運転しながら目にとまっただけでもたくさんのヘンなモノを目視できた。

実際、淡路島に渡らなくても日本の地方都市は美的センスの欠如した(というか、そもそも美醜などという言葉とは別次元の)奇怪な人工物にあふれている。そういう風景をおもしろおかしく取り上げたのが都築響一の「ROADSIDE JAPAN」であり、ポップアートの変種または拡大解釈として捉えたのが大竹伸朗の「ジャパノラマ」シリーズ、というようなことになるのだろう。

だから淡路島だけに限った話ではないのだが、世界平和大観音や淡路城を世に送り出した美的センス(あるいはその欠如)は、いったい日本人の、日本文化の何に根差しているものなのだろうか? 俗悪醜悪趣味というのは日本の文化的DNAに組み込まれている性向なのだろうか? いや、問題はむしろもっと単純なことかもしれない。つまり、美的センスの有無にかかわらず創作衝動というのは誰もが何らかのかたちで持っていて、何かモノをつくりたい、つくらずにはいられないというその衝動が資金的な裏付けを得た途端、とんでもないものをズブズブと産み出してしまう、と。これを止めるためには、景観条例みたいな法的措置を構えるか、資金源を断つかしか方法はないのだが、公的なカネでさえもだれかの野放図な創作衝動に供されることがあるわけで、一筋縄ではいかない(例えば、淡路市には市立の美術館がある。これが「淡路市立中浜稔猫美術館」というシロモノだったりする。淡路市出身の中浜稔という「猫の墨絵の第一人者」の作品を集めたというこの市立美術館にももちろん行かなかったけれど、行政予算でこんなものを設立運営する市の住民でなくてよかったと心底思う。淡路島の特産品が猫なのであれば地域経済との絡みでまあわからなくもないけど、そういうことでもなさそうだ)。

阪神淡路大震災の被害とその後の復興については詳しいリサーチをしたわけでもないので、憶測でものを言うのは避けたいところだが、おそらく震災復興の一環として整備されたであろう道路や建物などがテラテラとした薄っぺらな印象を島全体に与えている。復興のための多額の基金が流入し、多くの公共事業が格段必要とも思えない施設を必要とも思えないところにたくさん産み落とす結果になった、というのはよく聞く話である。豊富な資金に裏打ちされた無制限かつ奔放な創造活動。淡路島は、そんな悲喜劇的事情に地方都市・観光地につきもののキッチュが結びついて、他にはあまり見られない濃密な「ヘン」な空気を全島に充満させているのかもしれない。

ちなみに大観音は1982年の竣工だというから、震災復興とは関係がない。ないどころか、この観音様は大震災を生き延びたわけだ。地震で倒れればよかったのにと言うつもりもないが、なんというか皮肉な話ではある。

さて、最後に、地方に行くと必ずご当地キティをチェックするのが習慣になっているのだが、淡路インターの道の駅で見つけたご当地キティちゃん「うずしおバージョン」は秀逸で、今回淡路島で見た人工物の中で最も優れた造形性を示していた、ような気がしなくもない(買ってないけど)。

http://lykeion.info/map/sikoku/img/uzusio.jpg
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by hrd-aki | 2011-02-22 17:40 | 雑感

『ルネッサンスの光と闇』(3)

少し間が空いてしまったけれど、『ルネッサンスの光と闇』(高階秀爾著)という本から現代アートについて考えてみるシリーズの第3回目。

ちなみに前2回の記事はこちら。
『ルネッサンスの光と闇』
http://hrdfineart.exblog.jp/11549868/
『ルネッサンスの光と闇』(2)
http://hrdfineart.exblog.jp/11568023/

『ルネッサンスの光と闇』の「第一章 虚飾の焼却」では、フィレンツェで修道僧ジロラモ・サヴォナローラが行ったいわゆる「虚飾の焼却」あるいは「虚栄の焼却」を、特に美術との関わりを中心に、美術史家ジョルジョ・ヴァザーリの『芸術家列伝』の記述に基づいて論じている。ルネッサンスのいわば「闇」に相当する部分、とざっくりと言えなくもない。サヴォナローラは、キリスト教的終末論に支配された世紀末(15世紀末)の雰囲気の中、絵画から文学から音楽にいたるまで華美で贅沢な文化風潮すべてを退廃的として攻撃し、熱狂的な支持を集めてフィレンツェの政治的実権を握った。「虚飾の焼却」はその過程で二度にわたって行われ、サヴォナローラの煽動によって多くの画家たちが自らの作品をすすんで火に投じた、とされている。ヴァザーリの記述を、又引きになるが引用すると、

***

「それは芸術、とくに絵画にとって、取返しのつかない損失であった。というのは、バッチオ(バルトロメオ)は、自分の描いた裸体習作をすべてこの火刑のなかに投げこみ、続いてロレンツォ・ディ・クレディ、および他の多くの画家たちがこれに倣ったからである……」

***

さらに、「虚栄の焼却」がこの時代のフィレンツェの芸術にもたらした影響については、次のように総括されている。

***

二度にわたる「虚飾の焼却」の収支決算書は、直接の影響に関するかぎり、かなり明瞭である。それは「バルトロメオやロレンツォ・ディ・クレディ、および他の多くの画家たち」の優れた画稿や作品を焼失せしめ、ヴィーナスの画家ボッティチェルリを沈黙させた。しかし他方では、フラ・バルトロメオという優れた宗教画家を生み出し、ボッティチェルリに晩年の傑作を描かせた。

さらに、社会的に最も大きい影響は、「虚飾」ではない宗教絵画作品の隆盛をもたらしたことであろう。現在の眼から見れば、いささか甘過ぎるようなペルジーノのあの遠く天を憧れる上向きの眼差しは、直接神と結びつこうとする宗教改革運動のシンボルのようになった。逆に言えば、ペルジーノ風の甘美な宗教画を描いているかぎり、画家は安全であった。このような特殊な事情を考慮しなければ、1490年代におけるペルジーノの人気の急速な高まりは、理解することができないであろう。

***

ここで名前の挙がっているボッティチェルリは、「ヴィーナスの誕生」や「春」といった異教的かつ官能的なテーマと描写の作品で知られているが、晩年、サヴォナローラ登場後は禁欲的な宗教画ばかりを描くようになっている。もちろんボッティチェルリ自身が年齢を重ねたことも要素のひとつとして考えに入れなければならないだろうが、社会環境が作家と作品に与える影響について示唆に富んだエピソードと言えるだろう。

現代美術との関わりでもうひとつ示唆的なのは、ペルジーノについて触れている段で、「人気」というキーワードがスッと無造作に提出されていることだろう。美術史上の動向や変革について触れるとき、「傑作」とか「天才」とかいう言い方をすることはあっても、「人気」という言葉には滅多にお目にかからない。ゴッホ礼賛に象徴されるように、人気がなくても(全く売れなくても)すばらしい天才の持ち主、というのがひとつの理想の芸術家像として定着している感が現にある。逆に、「人気作家」という呼称はどちらかというと一段下の、大衆受けする「やわ」な作品づくりしかできないアーティストに向けられる、軽い蔑称となっていると言っても言いすぎではないと思う。

では、現代アートにおいて「人気」に代わる好ましい表現は? それはおそらく「高い評価を得ている」とか「各方面から注目されている」といったあたりになるだろう。ここに「海外でも」とか「国際的に」とかいう形容がつくとさらにハクがつく。あ、ただし間違っても「海外でも人気が高い」などと言ってはいけない、すごく薄っぺらくなるから。

引用した部分の最後の一文で、「1490年代」を「2000年代」に、「人気」を「評価」に置き換え、そしてペルジーノの名前を例えば草間彌生、千住博、村上隆、ロッカクアヤコあたりに置き換えてみると、そこにどのような「特殊な事情」を引きつけてくるべきなのだろうか? 600年後ではなく今、レトロスペクティブな視点を持ち得ない同時代においてはそのような問いはかなり厳しいものになるけれど、しかしそれに答えようと四方八方に思考を巡らすこと自体はかなり刺激的で面白い。

現代的な(マスメディア的な)意味での「人気」と、近代以前の注文主対芸術家という関係性においての「人気」とは、もちろん全くの別物として考えなければならない。しかしながら、サヴォナローラの原理主義的・狂信的な主張が熱狂的な世論を生み出したように、メディアがつくり出す恣意的な「高評価」「国際的に注目」のイメージも強力な世論を生み出すことができる。そこには必ず何らかの「特殊な事情」があるはずなのであり、それとは裏腹に自らの「優れた作品」をすすんで火にくべなければ生きていけない「多くの画家たち」も、15世紀末のフィレンツェ同様に21世紀の日本にも実際存在しているのだということにも思い至るべきであろう。

こんなふうに考えてくると、改めてアートというのは厄介で扱いにくい、そして決してその正体を明かさない怪物のようなものなのだと思わずにはいられない。

ちなみに今さらだが、この本はすでに絶版になっているようで、Amazonでも古本でしか手に入らないらしい。良書は悪書を駆逐する、というわけにはいかないようだ、残念ながら。
http://www.amazon.co.jp/ルネッサンスの光と闇―芸術と精神風土-中公文庫-高階-秀爾/dp/4122014166/
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by hrd-aki | 2011-02-22 01:04 | 雑感

ウフィツィ美術館自画像コレクション展

大阪・中之島の国立国際美術館で開催中の「ウフィツィ美術館自画像コレクション」という展覧会を見た。フィレンツェのウフィツィ美術館から、アーティストの自画像ばかりを集めたコレクションの巡回展。東京・新宿の損保ジャパン東郷青児美術館で開催された後、大阪に巡回してきた。

17世紀にメディチ家出身の枢機卿レオポルド・デ・メディチが画家の自画像を集め始めたのがコレクションの始まりで、1980年代からは美術館創設400年の記念事業として自画像寄贈(を依頼する)プロジェクトも始まり、現在はコレクションの自画像点数は約1,700点にまで拡大している。そのうちの70点あまりが今回の展覧会のために来日した——というのが概要だ。

バロック期から現代アーティストまで、時系列的に並ぶ自画像の数々はアーティストの自意識のありようをそれぞれに窺わせて、なかなかに興味深いものがある。イタリアの美術館だけあって、作家のラインナップもイタリア人の比重が重いように見受けられたが、作品として面白いのは何と言っても現代の作家たちのコーナーだった。ルチオ・フォンタナ(この人もイタリア人だ)など、画面に「Io sono Fontana」(私はフォンタナだ)という文字を書きこんだだけの小さなドローイングを「自画像」として寄贈していて、前衛芸術家の矜持のようなものが感じられる。アントニ・タピエスの自画像も、図像的にはとても自画像とは呼べないような抽象的な画面で、顔や体の暗示さえなく、タピエスの他の作品と並んでいたとしても全く区別がつかない。「自画像」というタイトルだけが、これが自画像であることを担保している。

他に個人的に気に入ったのは、ナビ派のモーリス・ドニの「家族といる画家の自画像」。平和で穏やかで控えめな雰囲気が、「オレ様」的な自我の発散になりがちな自画像としては異質で印象的だった。

自画像という切り口で美術史をいわば輪切りにすることで、美術/絵画が近代以降現代にいたるまでどのような展開・転回を見せてきたのかがわかりやすく示されているとも言える。そんな美術史通史的な視点を一般の鑑賞者がどれだけ咀嚼できるのか、イメージ主体の展示からだけではかえって「現代美術はわけわからないもの」という印象を強めるだけなのかも、と思わなくもないけれど。

この展覧会は東京大学美術史学研究室とウフィツィ美術館の共同研究の成果という位置づけもあり、僕の大学時代のゼミの指導教官だった小佐野重利先生が日本側の監修者を務めている。見に行くまで全く知らなかったのだけれど、なんとなくなつかしくなった展覧会でもあった。

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***

展覧会は2月20日まで。
http://www.asahi.com/event/uffizi/
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by hrd-aki | 2011-02-06 19:39 | レポート

〈DEMADO PROJECT〉コレクション展示:栗原亜也子

前項で紹介したとおり、ウィンドウギャラリーの展示プロジェクト〈DEMADO PROJECT〉の第3回目の展示企画「H氏との対話」が現在進行中だが、その予告編というか先触れとして、栗原亜也子の写真作品をウィンドウギャラリーに展示している。タイトルは「つた」。40cm角くらいの正方形の小さな作品だ。

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この作品は「H氏との対話」のオセロ・ペインティング(「Mind Games」)とはまた別のシリーズで、栗原は「Pictures」と名付けて、これもここ数年継続して制作している。昨年の横浜のフラワーショップ(エドウィン・アール・モレナール アトリエ http://www.edwin-r-molenaar-ltd.com/)での個展は、このシリーズの作品をまとめて展示する初めての機会となった。

Picturesのシリーズは、一言で言えばフィクションと現実との境界線上を舞台にした、だまし絵ならぬだまし写真のような表現だ。栗原自身が様々な画材と技法で描いた花や植物の絵を、本物の花や植物の中に紛れ込むように、あるいは書き割りのように背景に据えて、それを1枚の写真におさめる、という作業によって成り立っている。はっきりと「絵」の存在がわかる作品もあれば、輪郭がぼやけて背景に溶け込み判然としない作品もある。垂れ下がったセイヨウキヅタの蔓の後ろに、大きな余白を残して描かれたツタの水彩画が重ねられている「つた」は、比較的構造が見えやすい作品だと言えるだろう。

「つた」に限らず、Picturesのシリーズは完成にいたるまでの重層的なプロセスが透けて見える作品群だ。絵を描くこと、舞台設定をすること、写真を撮影すること、プリントとして提示すること……。最終的には厳然たる平面性を備えたフラットな「写真」として完成する作品だが、そこには積み上げてきたいくつものステップがそれぞれに意味を持って主従なく自己主張をしている。

プロセスを強く意識し、その痕跡を作品の中にとどめようとする態度は「Mind Games」にもはっきりと見られるが、それは栗原の制作活動の根本原理と呼べるものなのかもしれない。

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アーティスト栗原亜也子について(HRD FINE ARTウェブサイト)
http://www.hrdfineart.com/art-kurihara.html

栗原亜也子の作家ウェブサイト
http://www.k4.dion.ne.jp/~opq1974
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by hrd-aki | 2011-02-02 15:16 | ギャラリー